母のこと

11月29日に母が亡くなりました。

72歳でした。

正直このことをブログに書くか悩みましたが、
ブログに残すことで私の記憶だけでは曖昧になってしまう部分も残るのと、
もしかすると私の体験が誰かの役に立つことがあるかもしれないと思い書くことにしました。

あとは前回のお知らせを見ていただいたお客様からお気遣いの言葉をいただいたりもしていたので、
一応ご報告も兼ねてお伝えした方が良いかと思ったので。

ただ先にお願いがあります。

できればもし私に会うことがあった場合に母の話はしないでいただきたいです。

正直まだ私はその話ができるほど強くはありません。

今はなるべく今までのような生活にと思っています。

車を磨いている時や、ドライヤーをしている時、
その他、何も考えていないような瞬間と言いますか、
そんな瞬間にふと母のことを考えて涙が出てきてしまう時があります。

これを乗り越えないと、母もきっとそう思っているだろうと言い聞かせていますが、
それでもふと気が抜けた瞬間なのか無になった瞬間なのかわからないですが、
悲しみが湧いてきて、、、そんな時があります。

なのでこのブログを書くにも色々と思い出しながらになるので、
正直書いていて非常に悲しい気持ちではあります。

ただ、それも現実ですし、人はいつか死ぬので、
誰もがきっと大事な人の死と向き合わなければいけない時は来ると思います。

大事な人を亡くした方もいっぱいいると思います。

皆さんそれでも生きていくためにそういった気持ちを抱えながら、
自分も生きていかないといけないですから。





母が亡くなったのは癌です。

ちょうどコロナが始まる前ですかね。

最初の癌が見つかったのは。

切除してそれからは2週間に一度病院に通いつつ経過を見る形になりました。


父も母も学校の教員だったということもあり、
二人ともかなり真面目です。

そして二人ともあまり弱音を吐かないというか、
弱い部分を見せないです。

もちろん子供である私だから余計にそういった部分を見せないということもありますが。

二人とも教員生活25年以上ある中、
なんとインフルエンザにもかかったことがないほど健康だったそうです。

もちろん具合が悪い時もありましたが、
入院等の大きな病気は今までほとんどありませんでした。


なので母にとってはもちろん一番大きな病気になりますが、
それでも本当に手術したの?というくらい辛そうなところは見たことがなかったです。

抗がん剤の副作用でつらくないわけないのですけどね。


そして今年の3月に癌が転移しているのが見つかりました。


今度は切除はできないようで抗がん剤での戦いとなりました。


2週間に一度、病院に行くとその後2、3日は副作用がひどいということで、
さすがの母も2、3日は家でダウンしていました。

あ、書き忘れていましたが、
私は実家の隣の家に住んでいるので、
同居というわけではないですが行こうと思えばすぐ実家には行けますし、
母が外に出てくれば見えます。

でも雨戸が閉まっている時は調子が悪くて寝ているのだな、、、と、
聞き辛いことでもあったので”なんとなく”で察していました。

しかし9月か10月くらいですかね、
結構雨戸が閉まっている時が増えてきて、
私も”なんとなく”嫌な予感というか、
あまり状態が良くないのでは、、、と思っていました。


そしてその日は突然やってきました。

朝、父が私の家にやってきたのです。

しかもただやってきたのではなく、
ちょうど私、洗面所で準備をしていたのですぐに出られなくて、
もたもたしていると父が合鍵で玄関のドアを開けて呼んでいます。

普段は勝手に鍵でドアを開けることなんてないので、
これはきっと緊急事態だ!?と思って玄関に行くと、
父が、

”12月にゴルフヴァリアントの車検なんだけど、
車検のステッカーを貼る位置が変わるからフロントガラスのフィルムの避けている位置をどうしたらいい?”

そんな話をされました。

え?そんなこと?
と思いましたが、”それならこっちでカットした後にステッカー貼るから貼らないで渡してもらうようにして”
と、答え、、、でもそんな鍵を開けてまで急がないといけない話じゃないよな、、、と違和感が、、、

すると父が、ところで、、、と話だしました。

”おかあさんの状態がよくないんだ、、、”と。

実は今までの抗がん剤があまり効いていないようなので、
11月2日に新しく別の抗がん剤を使ったそうです。

それは以前のものより副作用が更に酷くてきついみたいなのですが、
それでも1週間以上ガマンしていたそうですが、
ここ数日でトイレに自分で歩いていけないほどの状態になってしまったと。

これは後でわかったのですが、
腹水と言ってお腹に水が溜まってしまうのですが、
母はお腹に7Lもの水を抱えていました。

更に足がむくんで倍くらいの太さに腫れ上がっていました。

しかし母はそんな姿を見せたくないと言っているので、
私が見に行くのは嫌だと言っている、、、ということだったので、
それは救急車を呼んだ方が良いと言いました。

実際に見ていないのでどんな状態かわからないですが、
一人で歩けないということだし、
無理して父が一人で支えて運ぼうとしても危険なので。

しかし父は”救急車なんて呼んだら申し訳ないから自分の車で病院に連れていこうかと、、、”
と言っていたので、”いやいやそんなの申し訳ないなんて言っている場合じゃないから呼んだ方が良い”と伝えて、
私は仕事があったので仕事に行きました。

それが11月10日ですかね。

結局救急車を呼んで母は入院することになりました。


しかし私も母がどんな状態なのか見ていないし、
まさかそこから1ヶ月も経たないうちに母が亡くなるなんて全く予想もしていませんでした。

そして父もまさかそんな状態とはわかっていなかったです。

私の嫁さんは看護師なのですが、
ちょうど救急車を呼んだ時に家にいて状態を見てくれていました。

なので救急隊員の方が来て脈拍を測ろうとしたら機械では測れなくて、
手で測って80弱と言っていたそうです。

それを聞いて普通80以下なんて状態だと喋れないくらいなのに、
母はきっちり受け答えしていてすごい、と言っていました。

それと同時に母がどれくらい危険な状態か一番わかっていたのは嫁さんです。


嫁さんは今訪問看護といって自宅で看護をする仕事をしています。
そう、まさにこれから母がお世話になるのは訪問看護の人たちだったのです。

なので、今の母の状態がかなりまずいというのは嫁さんだけわかっていました。

私は母の状態を見ていないし父ももちろん癌患者さんの知識はそこまでないです。

とりあえず入院して腹水を7L抜いてもらって、
点滴を打って少し落ち着きました。

なので私と父はとりあえず一旦落ち着いたのかと思ってしまいました。

11月2日に新しい抗がん剤の1回目を打って、
11月30日に2回目を打つ予定でした。

入院して父が先生に言われたのが、
このまま抗がん剤での治療を続けるか自宅療養するか。

抗がん剤をやめる=治療を諦めてあとはどれだけ苦しみを和らげるか

なんですが、つまりそれは命の選択です。


実は新しい抗がん剤の1回目を打った時、
病院にいたのは母だけです。

先生とどういう話をしたのか父も知らないそうですが、
いつもの通院より時間がかかっているな、、、と思ったそうですが、
迎えに行ったらなんともう1回目の抗がん剤を打った後だったそうです。

つまり母自身は可能性が1%でもあるなら癌と戦いたい、
そういうことだったのかもしれません。

しかし現実は厳しく、どんどんと癌が母の体を蝕んで、
日に日に母は弱っていくことになってしまいました。

そして1回目の入院で母はとにかく家に帰りたい!と言うので、
自宅で介護する体制を整えることになりました。
この時点では看護ではなく介護です。

しかしこの時点で私は母の姿を見ていないので、
どんな状態かわかりません。

コロナの影響で面会は週に2回、一回15分のみということで、
もう退院する方向で動いていたので、
私は仕事もあったので面会は父だけが行きました。

ちょうど定休日の水曜日、
退院する前に家に介護ベット、トイレ車椅子などが運び込まれました。

そして16日に退院したのですが、
私が会ったのは17日の朝でした。

そう、母に会ったのは2週間以上ぶりだと思います。

そこで初めて弱り果てた母を見たのです。

入院しても状態はよくなるわけではないので、
脈は80以下ということでさっきも書きましたが、
普通は喋るのもつらいくらいの状態だそうですが、
なんと母は自分で歩いて家の前の階段を登ったそうです。


母は私が行くとベットの上に座って足を見せてくれました。

嫁さんには聞いていましたが倍くらいに膨れ上がっていました。

しかし体はだいぶ痩せてしまっていて、
喋るのも辛そうです。

少し話して、ちょっと疲れたからと横たわって休みました。


父と話しました。

もうこの状態だから11月30日の抗がん剤は無理でしょ。
お母さんも家にいたいと言っているから、
これからは自宅で過ごさせると。

その場合、先生は余命3ヶ月だと言っていたと聞きました。


ついに余命という言葉が出てきてしまったか、、、
と思いましたが”3ヶ月”と聞いて、
これから色々大変だけど長い戦いが始まるな、、、と思いました。

なにしろ私は入院する前の姿も見ていないので、
これでも病院で点滴等で少しよくなったのかなとも思っていたのですが、
実際は違いました。


おそらく父も余命3ヶ月と聞いていたので、
良くはないけどそこまで悪くないと思っていたようです。

でもとりあえず自宅に戻って一安心という感じの空気もありました。

しかし食べ物はほとんど食べられないのでゼリーと水分のみ。

1時間おきに夜中も起こされてお世話をして父もだんだん疲れている様子でした。

しかし母もさすがに私にお世話してもらうのは嫌なので、
嫁さんが手伝って色々とやってくれました。

そして退院して4日目に事件がおきます。

食べても結構吐いてしまうそうなのですが、
吐いた中に血が混じっているということで、
病院に電話するとすぐに病院に来てくださいと。

そんなわけでわずか4日で再度入院することになってしまいました。

そんな状態でも母はもう入院は嫌だとかなりごねたみたいですが、
父に説得されて入院しました。

私は仕事があり面会には行けませんでしたが、
入院中も母は日に日に弱っていき、、、


次は自体で看護する体制を整えることになりました。

自体に来てくれる先生を探して、
介護の手配もして、
嫁さんが訪問看護師のおかげで何を手配したら良いのか、
どこが評判が良い等教えてもらって非常に助かりました。

しかし23日が祝日だったために退院は24日に。

父は先生との打ち合わせがあったので私と嫁さんで病院に母の迎えに行きました。

介護タクシーが来るまで30分以上あったので、
私だけ母の病室に連れて行かれました。

しかし1週間前はベットに自力で起き上がれた母はすでに起き上がる力もなく、
本当にこのまま息をひきとってしまうのではないかというくらい弱っていて、
私は涙が溢れそうでした。

これは余命3ヶ月もない、、、

その時に初めてわかった、、、

そんな感じかもしれません


介護タクシーで自宅に着くと、
今回はもう歩くどころか起き上がれないので、
3人で担架で家に運び込みました。

お昼頃に父も戻り、午後には早速自宅に来てくれる先生が状態を見に。

私は一旦仕事に戻ります。

その時点で母に会っていたのは父と私と嫁さんと上の妹だけです。

そんな姿を見られたくないからと、
下の妹と孫7人は会っていなかったのです。

しかしそんなことを言っている場合では、、、と思う一方、
母は余命等は聞かされておらず、
あまり悟られるようなことも出来ず、、、という葛藤がありましたが、
父の判断で孫たちも会わせることに。

そんなわけで25日は孫たちも続々と家に来ました。

最初は母も”なんで、、、”と言っていましたが、
孫たちもおばあちゃんを心配しているから、
とりあえず退院したから会いに来たんだよ、、、なんて言ってごまかしました。

夜には家族全員が揃う状態に。

母は正直もういつ亡くなってもおかしくない状態です。

しかし総勢14人がかわるがわる声をかけ、
母も生きる力をもらったのでしょう。

なんとか少しもちなおしました。

しかし母も悟ったのでしょう。

半分冗談で、”これは死ぬパターン、、、”なんて言っていましたが、
そこからは一人一人に感謝を伝えて、
褒めて褒めて褒めて、、、
私も涙をこらえられなかった、、、

私もずっとついていたいですが仕事が途中なので、
母に”また戻るから待っていてね”と伝えて夜中に作業をしに戻りました。

ちょうどお客さんに少し多めに時間をいただいていたので、
日曜日は一日中母についていることが出来ました。

しかしもう母も気力で目を開けるのもたまにだけで、
話は聞こえているのですが話すのはかなり厳しく、
うなづいたり首をよこに振って、
なんとか伝えようとしている状態です。


月曜日は朝に納車と入庫があり仕事に行きましたが、
なるべく早く作業を進めて17時くらいまでに帰れるように進めていました。

しかし嫁さんから14時くらいに今すぐ帰ってきた方が良いと連絡が来て、
店を閉めて家に戻りました。

何回も書きますが嫁さんは今までに何人もそういう患者さんを見ているので、
この症状が出たらそろそろ危ないというのを知っています。

しかし母はその症状が出てもまた気力で乗り切っていました。

いかに母がまだ生きたかったのか、、、


しかし母がこんなことになるなら抗がん剤なんてやめて、
もっと行きたかったところや美味しいものを食べたかった、、、
と言っているのを聞いて涙がこらえきれませんでした、、、


コロナのせいでここ数年、まともに外に行けなくなってしまった母、、、

行くとしても近所の森に散歩くらい。


真面目でお医者さんに出された大量の薬をきっちり朝、昼、晩と分けて飲んで、
少しでも健康になりそうな食べ物を選んでとって、
病院から渡された紙を全てきっちりとまとめてとっていて、
その分厚さを見た時に涙が出そうになりました、、、


冬のソナタでヨン様にハマって韓国語を読んだり話せるくらいまでなって、
初めての海外旅行で父と韓国に行った母。

本棚にはびっしりと色々と書き込まれた韓国語の本が。


教員を退職しても尚、学ぶ力は本当にすごかった、、、




すみません、書いていて涙が止まらず何を書いているか自分でもよくわからないです、、、





母が最後にメロンが食べたいと言って、
時期ではないのでネットで取り寄せて、
なんとか退院するちょっと前に届いたのです。
アンデスメロン2玉。


もう食べることは出来ないのでつぶして汁を飲ませてあげたら、
美味しいって、最高って、、、


29日の朝9時半頃に母は息をひきとりました


その夜に父がうちにメロンを持ってきました。


母が最初から1玉は朋也にあげてくれと残していたと


あんなにつらい状態なのに、
それでもまだそんなに人に気を遣っていたなんて


メロン美味しかったよあかあさん


節約するためにしまむらで売れ残っていた2Lのパジャマを着ていたおかあさん。

ブカブカなのに、、、


自分はガマンしてばかりで子供や孫に美味しいものを食べさせてあげようって

向こうではもっと自分に贅沢していいからね。


もっと自分のこと考えてもいいんだよ


すみません、、、もうこれ以上書けません


私の自慢のおかあさんでした

これがおかあさんの一番気に入っていたヨン様の写真です。

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